こんにちは。
母の日だった昨日、双子は早起きをして、うさぎのこみみのお世話をしてくれました。
普段は休日でもこみみのお世話のために早起きしますが、おかげでのんびりとした朝を過ごせました。
子どもたちは日頃から「ママ、いつもありがとう」と感謝を口にしてくれます。
だから我が家では、母の日があまり特別なものという気はしないかな。
でも、ことあるごとに「ママをゆっくりさせてあげよう」という気遣いが感じられて嬉しかったです。
晩ごはんはお味噌汁とひじきの煮物だけ作り、お寿司のテイクアウトで手抜きさせてもらいました♪
ここは、焦らずに
先週の金曜日に1時間だけ登校した次男、疲れを引きずることもなく週末も元気に過ごしました。
鼻唄を歌ったり、ゲーム中も口数が多かったり。
相変わらず工作も熱心にやっていました。
子どもがご機嫌な姿を見ると嬉しくなりますね。
次男が授業に参加したのは、5年生の1学期以来のことでした。
以前の私だったら、なるべく間を空けずにまた登校して欲しい、この調子でペースを掴んで欲しいと望んでいたと思います。
でも、そういう私の焦りがプレッシャーになり、望んだのとは逆の方向に舵を切る結果になってしまっていました。
ここは、焦らずに。
動き出すには勇気がいるし、起動する時ってエネルギーを沢山消費します。
その先の道を進み続けるには、起動した後にも十分にエネルギーの蓄えが残っていないといけません。
続けて登校したり、予定通りに行動するのは、不登校の子にとって想像以上にハードルが高いことなのだと思います。
母の日と話の通じない義母
毎年、母の日には近所に住んでいる義母にお花をプレゼントしています。
以前は義母とは良い関係でしたが、ここ数年は子どもたちの不登校に対する考え方の相違から、極力距離を置いている状態です。
正直、今年はお花をプレゼントするのは止めようかな・・・と思っていました。
子どもたちのことでまた何か言われたくないな、というのが率直な気持ちでした。
でも、夫がちょうど休みだったこともあり、結局、夫と一緒にお花を買って届けに行きました。
結果は予想通り。
義母の中には、不登校や支援級に対する差別的な認識が根強くあります。
不登校なんて恥ずかしい。
支援級に通う子は、まともな進路を選べない。
表現はもっとソフトですが、言葉の端々に、そういう考えが見え隠れするんです。
また、自閉スペクトラム症と診断されている長男についても、基本的に診断を受け入れない姿勢。
テレビで見る自閉症の子と全然違う。
長男はよく出来る子だし、今のままでいたら本当に勿体ない。
と言います。
自閉スペクトラム症の子は、能力の凸凹具合によって表に出てくる特性が全然違います。
そして長男の場合、端から見て非常にわかりにくいタイプだと言われています。
でも凸凹具合は大きくて、本人の中では実は困っていることが沢山あったり、不安が強かったりするんです。
義母にはいくら説明しても、こういうことが上手く伝わらない。
「不登校」「支援級」「自閉スペクトラム症」・・・義母はこういうレッテルを見ているのであって、子どもたちのありのままを見ようとはしないんです。
私は子どもたちに普通の道を歩んで欲しいと思っていません。
自分だけの道を見つけて歩んでいって欲しいと思っています。
でも、義母に言わせると、それは「普通の道を諦めてしまっている」ということになるらしい。
別に諦めているとかではなく、普通(普通ってなんでしょうね)の道が子どもたちにとってベストだと思わないだけ。
やっぱり、まともに話し合える気がしません。
お花を届けに来なければ良かった・・・と後悔しました。
ただ、昨日は夫が何度もフォローに入ってくれて、ちょっと頼もしく感じました。
まぁ、それでも義母には通じないのですが。
ポジティブな諦め
以前は義母とこういうやり取りをする度に、何日もダメージを引きずっていました。
でも、今は最初から諦めているし、夫も味方になってくれる。
私の考え方を間違っていないと言ってくれる方もいるので、引きずることはなくなりました。
義母はそういう考えの人なんだと俯瞰的に考える。
イヤな気持ち、傷ついた気持ちは、どこかで吐き出してサクッと消化する。
あとはなるべく距離を置く。
うつ病を克服した友人が「ポジティブな諦めは大事だよ!」と教えてくれました。
自分の心を守るために、ポジティブな諦めが必要なこともある。
この考え方を教えてくれた友人に感謝です。